進化する意識の「目」

気楽に続けた太極拳

もう長く太極拳を習っています。

先日は、月謝袋が7枚目を終え、いよいよ8年目に突入することとなりました。

週に一度、クラスに参加するほかに、日常生活でも太極拳をしたいな、と思う時には近所の森に出かけていきます。

光の中、大地に足をつけ、風を感じ、鳥の声を聞き、緑の息吹、虫たちの気配・・・。

さまざまな自然を感じながら体を動かすのはとても気分がいいです。

わたしの感覚では、同じ事を屋内でするよりもずっとリラックスして上手にできます。

(ただ、猛暑の中の湿度の高い森は苦手です^^;。)

とくにここ数年は、「やらなければ」という概念もすっかり抜け落ちてしまったので、のんびり、できる時にめいっぱいそれを楽しむ、という感じで太極拳を続けています。

太極拳の套路(型)では、リラックスして心地よい状態で動くことがそのコツのひとつです。

わたしは、レイキでそういう感覚は得意だと思っていたのですが、いざ始めてみると、自分の動きの不自然な癖や潜在的な意識の緊張が体にたくさん表現されていることに気が付いて愕然としました。

しかし、太極拳が「動」ならレイキは「静」ともいえるような、形は違うけれど同じものなんじゃないかという感覚がわたしの好奇心をかりたてて、今に続いています。

おかげさまで、ここ数年は、だいぶ硬さがとれて柔軟さが生まれてきているように感じています。

そんなわたしの経験から、ひとつ気が付いたことがあります。

進化する意識の「目」

太極拳の套路をしている時。

意識が一段リラックスした瞬間、無駄な力みがとれて型の流れが美しくなり、その型のもつ本来の自然な勢いに近づきます。

と同時に、それまではわからなかった先生の動きの本質的な美しさを理解します。

自分の動きが変わった直後に、先生の動きを見ると、それまでとらえることのできなかった動きを、目でとらえることができるのです。

そして、ハッとするのです。

自分の在りようによって、見える(理解できる)領域が変わるんだな、と。

とくにここ数年はそんな気づきの繰り返しでした。

そして、今朝ほど、森で太極拳をしていて気が付きました。

それは、レイキにおいても同じ事なんだな、と。

手当においても経験がものを言うのは、そこに進化する意識の「目」があるからです。

レイキは、目には見えませんから、「レイキを感受する力」を健全に育んで行く必要があります。

その力が育まれていく過程で、手当をしていてわかることが増えていきます。

解りやすい例で言えば、いろいろな種類のヒビキがわかるようになったり、呼吸の変化などヒビキ以外の感触にも意識が向くようになったり、レイキをする、というのはこういうことなのか、と自分の言葉で言語化できたり・・・。

最終的には、レイキをしている時の在りようについても、どんどん気づきが増していきます。

豊かな道はどちら?

レイキで、レベル1⇒2⇒3というステップが用意されているのも、その為です。

ハードル競争のように、少しでも早くその段階を飛び越えていくためではありません。

レベル1なら1、2なら2、3なら3、それぞれの段階での実践を通じて、みずからのレイキを深めるためです。

でも、こんな風に言うとちょっと堅苦しく感じるかもしれませんね。たしかに、これもひとつの真実なのですが、また別の表現をしてみましょう。

要は、それぞれの段階のレイキの実践を、子供が我を忘れて遊ぶように、感じ、味わい、楽しむことが大切だ、ということです。

レベル1、2、3をハードル競争のように飛び越えていく光景と、子供が、花を摘み、蝶を追いかけして、今その瞬間を楽しんでその道を歩んでいく光景と。

どちらが豊かで本質的だと感じるでしょうか・・・。

どうぞイメージしてみてくださいね。

豊かで本質的な道を歩みたい、という方は、ぜひ風の城の扉をたたいてください。

そんなあなた様にお会いできるのを楽しみにしています。

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